
「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
気仙沼を、唐桑を、
地方再生のモデルケースに。
加藤 拓馬
一般社団法人まるオフィス/
気仙沼市
震災復興・企画部 地域づくり推進課
加藤さんは、気仙沼市唐桑町のまちおこしを担う『一般社団法人まるオフィス』の代表理事であり、気仙沼市役所の嘱託職員でもあります。兵庫県に生まれ育ち、高校卒業後は東京、早稲田大学に進学。気仙沼とはまったくゆかりのなかった加藤さんが、二足の草鞋を履いてまで唐桑町や気仙沼市の復興・発展に力を注ぐのはなぜなんでしょうか。

「きっかけは、学生時代からお世話になっている先輩からのメールです。2011年の3月12日、地震のあった翌日に、お前東北に行けって。4月から東京のIT企業に就職することが決まっていたので、すみませんこれから入社なのでと返信したら、会社はいつでも入れるからって。やばいこの人本気だ、と(笑)」
とまどいながらも最終的には東北行きを決意した加藤さん。決め手となったのは、大学時代の中国でのボランティア経験です、と当時の心境を語ってくれました。
「中国でずっとワークキャンプという活動をしていたんですよ。難病がきっかけで差別を受けている地域に日中の大学生が訪れて、現地で道路作ったり夜はみんなでお酒を飲んだり。そうやって外国の若者が楽しそうにしているのを見て、それまで差別的な意識をもっていた周辺の人々も、知らず知らずにオープンになっていく。現場のど真ん中に行って、そこで人と出会うというのはすごく意味があることなんだと気づかされました」

3月30日に内定先の社長の元へ謝罪に行き、4月5日には唐桑町へ移動。毎日6時起きでがれきを撤去していたのだそうです。
「がれきの撤去自体は9月ぐらいに落ち着くんですが、その頃には長期滞在しているからこそ気づく、住民の本音みたいなものが見えてくる。数日来てくれるボランティアの方にはみんな『ありがとう』『がんばるよ』と言うんだけど、心の奥では唐桑はもうダメだ、と思っていたり。こっちにいる間に、そんな本音を話してくれる関係性ができていたんですね。それなのに、がれき撤去が終わったからといってすぐ帰るのも薄情じゃないですか」
まちおこしを志し、唐桑で頑張っている人にフォーカスを当てたフリーペーパーを作り始めたのが2011年の秋。いつしか住民の方からかけられる言葉は、「ありがとう」から「一緒に頑張ろう」に変わっていました。
「唐桑にいる4年間、こういう支援をしてきた、なんていうつもりはまったくなくて。何も知らない若造を育ててもらったという想いの方が強いです。一方的な復興支援じゃなくて、地元の方と一緒になった、復興まちづくり。いま、東北の被災地だけでなく、日本の地方はどこも同じ過疎や高齢化の問題を抱えています。だからこそ、これから気仙沼や三陸が復興していくプロセスは、日本中で応用できる課題解決・価値創造に向けたチャレンジなんです」

1年間の緊急復旧支援プロジェクトを経て、2012年には復興まちづくりを進める『からくわ丸』を発足。2015年に一般社団法人まるオフィスを立ち上げた加藤さんには、まちづくりに対する確固たる思いがありました。
「吉本哲郎さんが提唱されている『地元学』に出会ったことが大きいですね。ないものねだりをやめて、あるものさがしをしよう、という考え方。地元の方が『ここには何もないよ』と思っていても、僕たちから見れば魅力的な景色や文化、食などはたくさんあります。地元のおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にまち歩きをして、ひとつずつ魅力を再発見していく。地元の人にとってそれらは『あたりまえ』だから、よそものである僕たちが、『魅力再発見のきっかけ』という役割を担うわけです」
現在では、こうしたまち歩きに加えて子どもたちに外での遊び方を伝えたり、畑仕事の体験イベントや、気仙沼で活躍しているリーダーたちの失敗談を聞く『ぬま塾』の開催など、さらに精力的に活動している。
「ぬま塾は、市の事業としてやっています。これからのまちづくりの担い手を育成する支援事業。著名人のサクセスストーリーではなく彼らが若いころの失敗談を聞くことで、『俺にもできるかも』と思ってもらえれば嬉しいですね」
『よそものだからこそできるまちづくり』に注力してきた加藤さん。4年たった今、気仙沼や唐桑のことをどう感じているのでしょうか。
「都会の人が求めている豊かさとか、幸福感みたいなもののヒントは、ここにあるなと痛感しています。とにかく、人と人との距離が近い。海の幸も畑の野菜もおすそ分けの文化が根付いていますし、魚を自分でさばけないなら、隣のお父さんとこに持っていけばさばいてくれる。人間関係のウェットさに嫌気がさして出ていく若者もいるけど、都会の若者はそれを求めてIターンしてくる。現代はそういう構図なのかなと思いますね」
最後に、ご自身の今後について聞くと、面白い回答が返ってきました。
「よく、唐桑に骨をうずめるんだろと言われるんですが、そういうこだわりは特にありません。むしろ、よそものの強みを活かしていくには、同一化してはいけないと思っているんです。もちろん唐桑に愛着はありますし、できる限りのことはしたい。気仙沼や唐桑のまちづくりが日本におけるモデルケースとなり、ここ三陸の漁村をアジアのリーディング地域にしていくことが、僕たちの大きな目標です」
ゴールを達成した後に、どこに住んでいるかは分からない。そう言って笑う加藤さんの視線は、確実に未来をとらえています。新しい日本は、気仙沼から作られていくのかもしれません。


加藤 拓馬
一般社団法人まるオフィス/
気仙沼市
震災復興・企画部 地域づくり推進課
2011年3月に大学を卒業するとすぐに、長期ボランティアとして気仙沼入り。当初は期間を区切っての活動のつもりだったが、やりたいこと、やれることが見えてくる中で移住を決意。現在は、週のうち4日間は気仙沼市役所の嘱託職員として勤務し、木曜と土曜は自ら立ち上げた一般社団法人まるオフィスの代表理事として活動。唯一の休みである日曜日にも、まちおこしのイベントを数多く開催している。

この地域で活躍する人々

復興に向かう気仙沼の経済のエンジンとして、新たなチャレンジを支援したい。
布田 真也さん
気仙沼信用金庫
1986年、茨城県生まれ。大学卒業後、地元の銀行に5年勤務。その後、結婚を機に妻の地元である気仙沼へ。2014年より、気仙沼信用金庫復興支援課にて法人営業を担当。資金支援の側面から、気仙沼の復興を支えている。地元の人に頼られる人になりたい、と精進する日々。家庭では一児の父。平日はお子さんのお風呂を担当するなど、子育てにも積極的。

気仙沼の復興が、日本全国の水産業の発展につながるように
松井 崇憲さん
気仙沼市 震災復興・企画課
大阪生まれ。大学では水産学を専攻していたことから、卒業後は大分県の水産研究機関に就職し、魚の養殖についての研究に従事。2014年4月、日本の水産業の未来には、気仙沼の発展が重要であると感じて移住を決意し、気仙沼市役所に転職した。水産業とともに発展したまちで暮らす人々を支えていくことで、日本の水産業に貢献していく。